【読書】ルドルフ・シュタイナー教育講座Ⅱ教育芸術1/筑摩書房/高橋巖訳

読書

はじめに

昨年から、シュタイナー教育についての本をいろいろと読むようになった。

ご存知の方も多いと思うけど、シュタイナー教育は、スピリチュアルやオカルトといった色彩の強い教育思想。

よく理解できない部分も多いけど、それ以上に、新たな発見がたくさんあって面白い。

今回は、私のお気に入りの一冊について感想をまとめてみた。

芸術性を大切に

もっぱら考察しようとする態度で自然界を表象しますと、私たちは死への過程に身をおくことになり、意志の力で自然界に近づきますと、私たちは生命を賦活する働きの中に身を置くことになるのです。教育者としての私たちの課題は、絶えず死せるものを蘇生させることなのです。その働きによって死に抗する力をさらに強めること、このことが大切なのです。ですから子どものために授業を芸術的に形成することから始めるのに恐れを抱いてはなりません。

芸術的な仕方で人間に働きかけてくるものには、二つの方向があります。彫塑的・造形的な方向と、音楽的・詩的な方向です。

この引用部分を読んで、とある認知心理学の本に書かれていた「言葉を知ることで、物事を認識するために何がいる情報で何がいらない情報なのか、瞬時に判断できるようになる。」という話を思い出した。

逆に、言葉を知ることで、五感を働かせてじっくりと感じ取るべき情報を、無意識に切り捨ててしまうこともあるのだと思う。

例えば、目の前にある花の名前を知っていることで、その名前を認識するのに必要な情報以外が切り捨てられて、造形の美しさを感じ取ることができなくなるとか。

音楽や造形には、生命が宿っている。

子どもの知性を伸ばすことで、そういったものに対する感受性が鈍ってしまう…というのは、早期教育の見えない落とし穴だと思った。

シュタイナー教育においては、五感を超えた高次の感覚(霊的感覚、超感覚的認識)によって初めて事物の本質が把握できる…とされている。

要するに、本当に感受性豊かな人間になるためには、五感だけでは不十分だということ。

そういった感覚も芸術性を大切にして生きることで、研ぎ澄まされていくのかもしれない。

芸術といっても、一流の音楽、一流の美術品である必要はないと思う。

むしろ、身近で、素朴なものにこそ、生き生きとした美しさがある気がする。

意志とは何か

私たちは自我感情を二通りの仕方で子どもの心の中に呼び起こすことができるのです。間違った仕方でそれを行ないますと、まさに利己主義を呼び起こすことになります。しかし正しい仕方で呼び起こすことができれば、それは意志の働きを活発に目覚めさせ、まさに無私の精神で外界と共に生きることに目覚めさせるようになるのです。

シュタイナー教育では、「幼児期は感性と意志の土台を作る時期である」として、幼児期の知的教育を否定している。

私はずっと、「意志」って何だろう…と疑問に思っていた。

「意志」を育てるのに大事なことは、7歳までに教育者の行動を模倣すること、体を動かしながら体験的に学ぶことだというのは、なんとなくわかったのだけど、その結果育つ「意志」って何なのだろうと。

そんな中、先の引用部分を読んでいて、シュタイナー教育における「意志」で大切なのは、その方向性ではないかと思った。

「意志が強い」という言葉の意味をネットで検索すると、「困難に対して挫けることのないさま」「物事を行う意欲に溢れているさま」「志の高いさま」と書かれている。

でも、それが私利私欲を満たすための感情である場合、「意志」とは呼べない。

利他の心、平和を願う気持ち、自然を慈しむ気持ち。そういった方向に沸き起こる感情だけを「意志」と呼ぶのではないだろうか。

本当のところは、もっとスピリチュアルで深い意味があるのだと思うけど、とりあえず私はそう考えることにした。

意味のない活動を体験する

ですから子どもには理解できることだけを教えるべきだ、という一般に考えられている根本原則は間違っているのです。この原則の上に立ってしまえば、生きいきとした力がすべて失われてしまいます。なぜなら一度受け取ったものを心の奥にしまっておき、しばらくたってからそれを再び意識に取りもどす時に、初めてその事柄は生きいきとしたものになるからです。特に七歳から十四歳までの子どもの教育にとって、このことは非常に重要です。

人生にとって必要なのは、意味を追及するだけでなく、眠りの中で意志が体験する事柄をも追及することなのです。すなわちリズム、拍子、メロディ、色の調和、繰り返し、あるいはそもそも意味のない活動などを体験できるようにすることなのです。〈中略〉そうすることは、子どもの意志に働きかけます。

人生経験を重ね、成長するにつれて、以前学んだことを再び思い出して理解するようになれば、心情の育成に特別大きな作用を及ぼします。意味を初めからとやかく言う必要はないのです。このことは「教育の極意」です。子どもを感受性豊かな人間に教育するために、徹底して理解しておくべき事柄なのです。

この引用部分を読んで、子どもと大人って全く違う生き物なんだな…とあらためて思った。

物の考え方も、感じ方も。成長のために必要なことも。

そんな子どもの時間を、意味のある(と大人が勝手に判断した)ことで詰めこむことには、やっぱり強い違和感がある。

意味のある時間も必要だけど、余白は大きくとっておきたい。

今後も「急がば回れ」という気持ちで、我が子が自由でのびのびとした時間を過ごせるように心がけていきたいと思った。

以前、大人向けの自己啓発本の内容を、子ども(しかも幼児)に実践させている人を見たことがある。

具体的に、何の本のどういう項目だったのかは忘れてしまったけど。

大人が成長するための方法論を幼い子どもに実践させるって、子どもを「小さい大人」だと思っているのだろうか。

それって、けっこう危険な発想じゃないかな…と怖くなったことを、ふと思い出した。

言葉の音楽的側面

子どもは早い内から優れた詩文を覚えておくべきです。今日の社会では散文ばかりが幅をきかせています。今日多くの朗唱家がいますが、彼らは人びとに散文だけを押しつけて、文芸作品の内容的側面だけに注意を向けています。〈中略〉けれども本当に優れた朗唱は、音楽的要素を強調する朗唱なのです。

大切なのは、どんな詩を扱う場合にも、その根底にある音楽的なものに子どもの注意を向けることです。〈中略〉こうすることによって、詩を頭で理解するという今日の教育における顕著な傾向、本当におぞましいそのやり方が根本から排除できると思います。

以前、「昔の絵本は価値観が古い」とTwitterで批判されているのを見た。

確かに、パパは座って新聞を読み、ママがせっせと朝食の支度をしている…というような描写は時代に合っていないと思う。

ただ、私が思うのは、古い価値観が刷り込まれるか否か以上に、言葉のリズム、音声的な部分が優れているかというのは大切な視点であって、私の主観も入ってしまうのだけど、やはりその点は息の長い絵本ほど優れたものが多いと感じる。

子どもにインプットされる言葉は、意味も大事だけど音はもっと大事…と念頭に置いていると、自ずと選ぶ本が変わるのではないかと思う。

そういえば、『思考の整理学』で有名な言語学者の外山滋比古さんも、「幼い子どもには、優れたリズムの言葉を聞かせて絶対語感を育てるべき」ということをおっしゃっていたな…と思い出した。

おわりに

たくさんの知識をつける。思考力を鍛える。そういった知的教育は幼い時期からどんどんやっていくべき…と考える親御さんが、今は本当に多いのだと思う。

シュタイナー教育について勉強すると、そこにはデメリットもあることがわかって、子どもの教育について、より広い視点から柔軟に考えることができる気がする。

過熱する早期教育ブームに、少しでも違和感を覚えたことがある方は、ぜひ一度本書を読んでみてほしい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました